そういや〜、昭和17年(1942年)6月、NHKラジオから流れた「愛馬行進曲」のトランペットの響きが、船生村(現塩谷町船生)を騒然とさせたっけ。
私は、当時、船生国民学校へ通う10歳の少年でしたが、今でいうブラスバンド部があって、東京の芸大を出られた先生が月に何回か定期的に教えに来てくれました。その先生は、特に私に目をかけてくれまして、一生懸命教えてくれたんですね。あれは小学校の4年生の時でしたか、先生に「もうちょっといい靴はいてこい。」と言われまして、あくる日「先生にちょっと着いてきなさい。」と訳も分からずラッパを持って着いていきました。
栃木市の太平山あたりでしたが、NHKの中継所がありまして、そこに連れていかれました。子ども心に「何だろうな。」と不思議に思いながらもスタジオに入りました。スタジオには、マイクロフォーンが下がってまして、「あっちに立ってるおじさんが、こういうふうにやったら、吹き始めるんだぞ。」と言われるままに吹いたんですよ。それで無事に吹き終わりましてね、先生に「よくできた。」と、栃木駅前辺りだったでしょうか、あんみつをごちそうになりました。
先生は、「今、お前が吹いたのは、日本だけでなく満州やロシア、台湾、朝鮮など、外国にまで流れて、そこの人たちがみんな聴いてたんだからな。」と言うんですよ。その頃は、子どもは怖いもの知らずでね、「そうですか〜。」なんてピンときませんでしたが、3日くらいたったら足がガタガタと震えたのを鮮明に記憶しています。
このことが、私の音楽デビューとなったわけですが、幼少から英才教育を受けたのではなく、物心がついた頃には、家に冷蔵庫の倍もある蓄音機がありまして、特にクラシックはいつの間にか耳に入りながら育っちゃたんじゃないでしょうか。ですから、これといって自分では音楽で飯食っていこうなんて思ったことないんですよ。ただ、何となく「ラッパ吹いてみたいな」、「ギター弾いてみたいな」、そういうふうな気持ちにはなりまして、子どもの時からいつもラッパを吹いてたんですね。
その後、旧制今市中学校(現今市高校)では音楽部を作り、ピアノにも熱中するようになりました。音楽の成績は、「優良可」でいいますと優の上の「秀」、音楽はずっとそうですから、音楽の先生も音楽の方に行くかなって思ってたんじゃないですか。あとは品行というか素行というのがあるんですが、これなんかは「1」以下でしたね、今でいうと、「0.5」ぐらいですよ。
3年生になった時に、旧制中学から新制高校に変わりまして、また同じ学校でね、あと3年やんなくちゃならないかってね、何かつまんなくなってだれちゃいましてね、ほとんど学校に行かなくなっちゃいました。
でも、みんな大学へ行くっていうもんですから、私もどっか入らなくちゃいけないけれども、まず理数科のあるところは、100%落っこちるから。次が数学だっていうと、頭が痛くなるんですよ、そのくらい嫌いだったんですね。
そこへ友人が、ここならお前でも入れるんじゃないかなと持ってきたのが、今でいう音大の入学案内なんですよ。試験科目は国語・英語ぐらいでね、これなら大丈夫かなっと思って、それで入っちゃったのが、東洋音楽学校(現東京音楽大学)だったんですね。
まだ昭和24年ですから、戦後間もないころで大変でしたよ。焼け野原ですから、がれきの中で・・・。ところが、ほんとうに神仏が与えてくれたと思うんですが、そこで「高野公男」という人間に巡り合った。音楽学校の同級だったのですが、彼が茨城、私が栃木ですから、何言ってもツーといえばカーでね。
高野は、昭和31年の9月に亡くなりましたから、それまではほとんど一心同体で仕事してました。敗戦後の厳しい時代にそこで巡り合って、もしひとりではだめだったですね、耐えられなかったでしょうね。特に、私より2歳年上でしたから、何かにつけて引っ張っててくれましたね。
話しが変わりますが、私の母親は明治の生まれで、とても厳しい人だった。「お前はデレスケ(バカ者)だから。」と死ぬまで言われていました。
お陰様でヒット曲に恵まれてからも、田舎に帰った時に母は私に聞くんですよ。「何だか「王将」だとか何とかってのが流行ってるらしいけど、あれはお前が作ったんじゃないだろ?」と。だから「ないよ。」と言うんです。「「東京だヨおっ母さん」なんてのを歌ってるらしいけど、お前が作ったんじゃないよな?」って言うもんですから「違うよ。」って答えるんですね。そうすると喜んでるんですから。不思議な母親でしたね。
母親もたまにテレビを見るんですね。私が出てると、「男っていうのはあんまりあういうところに出て、べらべらしゃべるもんじゃないんだ。デレスケ野郎!」と怒るんですよ。また、「あだもの(テレビ)に出て、頭ぼさぼさにしてねえで、お金やるから床屋さ行ってこい。」って。男は、坊主にしなくちゃいけないみたいなんですね、昔の人ですから。それが長髪にしてると見苦しいってね。
ところが、そんな母親に生涯たった1度だけほめられたことがあったんです。
私が大学の時、ちょうど冬休みで田舎へ帰ってたんですよ。仲間みんなと飲んでまして、うとうとしてるところに突然バンっときたんですよ。昭和24年12月26日の朝っぱら、山と山が入れ替わったと言われるほどの大地震「今市地震」が起こったんです。
朝っぱらだったですから、火をたいたりしてるでしょ。わたしは2階で寝てたんですけど、1階に下りるのに歩けないほど大変だったのですが、バーっと行って火を全部消しました。母と姉2人がいたんですが、どこに行ったのかなと思ったら、家の裏にある石蔵で、くるまってるんですよね。「竹やぶへ行け!」って追い出して、その後大事なものだけ風呂敷に包んで、竹やぶに持っていって・・・。
その時のことです。母が「おまえも男なんだな。役に立ったな。」って言ったんです。その一言ですね、母にほめられたのは。母が89歳で死ぬまでは・・・。
私は、40年以上前に、海にあこがれて湘南に住まいを構えました。でも、人間ってある程度年とりますと、サケなんかと同じで生まれ故郷に帰ってくるんじゃないですか。生まれたふるさとの空気ですか、そういうものが恋しくなりましてね、25年前に、今市(現日光市)に仕事場「楽想館」を建てました。
今市は、旧制今市中学(現今市高校)があり青春時代を過ごしたもんですから、友達も非常に多いしね、そんなことで、どっちかっていうと、育ったところみたいな感じがするんですね。
現在では、「楽想館」での生活が中心で、弟子2人とともに暮らしています。敷地が1,000坪以上ありますが、作られた庭っていうのは嫌いなんです。自然林ていうか、できるだけ雑木林をそのままにしています。きのこも採れますし、小鳥たちは自分んちみたいになってますしね。
私は職業柄、日本国中歩いておりますけれども、どこへいっても日本はいいところがありますし、地方特有の文化を持ってますね。でも、生まれたとこっていうのは、だれにとっても特別な思い入れがあると思うんですよ。従いまして、私にとって「栃木」っていうのは、「自分の血液」、「生命」だと思ってます。
よく栃木県ってどういう県なのかと聞かれますけど、するめじゃないけど、「噛めば噛むほど味が出る県なんだ。」と思っているんです。米はうまいし、酒もうまい、水もいいですし、こんな豊かなところはないですよ。
栃木に流れる那珂川や鬼怒川、地元の大谷川、特に大芦川は日本の十指に入る清流で有名ですが、こういうものも噛みしめてもらいたいですね。
「この旨さが、わかんないんだよな〜、今のデレスケやつらは・・・。」
【プロフィール】
船村 徹(ふなむら とおる) [作曲家]
1932年 栃木県船生村(現塩谷町)生まれ
東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科卒1949年の大学在学時に、作詞家の高野公男と組み作曲の活動を開始した。作曲家としての本格的デビュー作品は「別れの一本杉」(歌・春日八郎・1955年発表)。演歌作曲家の大御所として知られ、手掛けた曲は約4500曲にのぼる。
1995年紫綬褒章受章、2008年文化勲章受章
主な作品
王将(村田英雄)、別れの一本杉(春日八郎)、あの娘が泣いてる波止場(三橋美智也)、夕笛(舟木一夫)、男の友情(青木光一)、柿の木坂の家(青木光一)、風雪ながれ旅(北島三郎)、なみだ船(北島三郎)、北の大地(北島三郎)、哀愁波止場(美空ひばり)、みだれ髪(美空ひばり)、ひばりの佐渡情話(美空ひばり)、兄弟船(鳥羽一郎)、東京だヨおっ母さん(島倉千代子)、さだめ川(ちあきなおみ、細川たかし)、矢切の渡し(ちあきなおみ、細川たかし他競作)、紅とんぼ(ちあきなおみ)、女の港(大月みやこ)、おんなの出船(松原のぶえ)、白馬のルンナ(内藤洋子)、寒椿(森昌子)、宗谷岬(ダ・カーポ)
日本音楽著作権協会会長、日本作曲家協会最高顧問・理事、横綱審議委員会委員、とちぎ特使

